杖突街道を行く
2018年05月14日
ひょんなところから物部守屋という人物が諏訪に関係しているのでは、という話を聞き少し調べました。物部守屋は大和王権の有力な軍事氏族であり、時の政権の大連として政権を蘇我馬子と二分していた。
その物部守屋の神社が高遠にあると分かって、伊那へ仕事ついでに立ち寄りました。ここは里宮で、奥宮は守屋山の山頂にあるとのことです。
物部守屋は排仏派であり、仏教導入派の蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)らと対立して、大阪で敗死する人物である。587年の丁未の乱である。時代は古墳時代の終末期です。
生き残った一族は全国に散らばり、ここ伊那市高遠町片倉・藤澤地籍まで逃げてきたのでしょうか・・。生き残った一族の一部が、祖神である物部守屋の鎮魂の為、創基したのかもですね。
はるか古代に権力闘争に敗れ、敗死した物部守屋の御魂に冥福を祈ります。
入口の脇に小川がとうとうと流れていました。
入口は守屋神社

扁額は物部守屋神社です

入口の鳥居。奥に見えるのが拝殿

いい感じの参道です

拝殿の奥に重厚な本殿がありました。急な階段の上です。実はこの奥の斜面に、同一方向に石造りの小さな祠が有りました。私は上りませんでしたが、それが本来本殿かもです。

その物部守屋の神社が高遠にあると分かって、伊那へ仕事ついでに立ち寄りました。ここは里宮で、奥宮は守屋山の山頂にあるとのことです。
物部守屋は排仏派であり、仏教導入派の蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)らと対立して、大阪で敗死する人物である。587年の丁未の乱である。時代は古墳時代の終末期です。
生き残った一族は全国に散らばり、ここ伊那市高遠町片倉・藤澤地籍まで逃げてきたのでしょうか・・。生き残った一族の一部が、祖神である物部守屋の鎮魂の為、創基したのかもですね。
はるか古代に権力闘争に敗れ、敗死した物部守屋の御魂に冥福を祈ります。
入口の脇に小川がとうとうと流れていました。
入口は守屋神社
扁額は物部守屋神社です
入口の鳥居。奥に見えるのが拝殿
いい感じの参道です
拝殿の奥に重厚な本殿がありました。急な階段の上です。実はこの奥の斜面に、同一方向に石造りの小さな祠が有りました。私は上りませんでしたが、それが本来本殿かもです。
Posted by マツケン at 16:00│Comments(0)
│歴史・史跡探訪